「ロベルタ・ディ・カメリーノ」の創業者であるジュリアーナ・カメリーノの人生を振り返る本連載。第2回目となる今回は、「ロベルタ」というブランドの誕生に焦点を当てます。
バッグ作りの再開生まれ育ったベネツィアへ戻ったジュリアーナは、生活が落ち着くと、新しい試みを始めることにしました。年老いた革職人を見つけ、自宅の一室に工房を開いたのです。母から受け継いだセンス。スイスで得た革の知識と、人々の評判。ヴェネツィアでのスタートに必要なものは持っている、という自身がありました。スイスでのバッグ作りを振り返ると、ジュリアーナはどこか窮屈だと感じていました。時に美しく高級な素材を使ったとしても、あくまで身の回りのものを入れておく容器という限定された機能しかない。そんな常識に縛られていたバッグに、ジュリアーナはもっと個性をもたせ、付加価値を付けたいと感じるようになります。そしてお気に入りの布をいじくりまわしていたある晩、ジュリアーナはとうとうアイデアを思いつきます。新しいけど、ごくシンプルなアイデア。仕立屋泣かせとして有名な友人に見せると、すぐにそのバッグをほしがりました。ジュリアーナのバッグは、柔らかで、二つ折りにして口を閉じるタイプのまったく新しいバッグでした。
こうしてできたバッグをジュリアーナはヴェネツィア一のバッグ販売店、ヴォジーニの店に試作品を持ち込みます。ヴォジーニの反応はこうでした。「本当にあなたの作品?まさか、ひとりでこんな素晴らしいものを…」。もちろん契約は成立。こうして、ジュリアーナのバッグの販売がはじまります。1947年のことでした。またヴォジーニは、バッグに皆が覚えられるような名前を付けるべきだとアドバイスしました。自分の思いが詰め込まれたバッグにふさわしい、優雅な名前。そのときジュリアーナは、初めて踊りに行ったときの、ある歌を思い出しました。「Smoking in your eyes(煙が目にしみる)」。ハリウッドのミュージカル映画「ロベルタ」に使われた、ジュリアーナの大好きな曲です。ジュリアーナは、少女時代の思い出が詰まった美しい名前「ロベルタ」をブランド名に選びます。結婚後の名字である「カメリーノ」を添えて。
当時、女性の装いは極めて厳密に決められていました。バッグにも、革の色を靴と同じトーンにそろえる、という不文律がありました。ところがジュリアーナのバッグは鮮やかな色をしており、靴と合わせるのは不可能です。洋服とコントラストを効かせたり、あるいは当時流行した柄物の1色に合わせたり、新しい着こなしが必要でした。しかし長く暗い戦争が終わったこの時代、人々はまさにそういう着こなしを求めていたのです。
ジュリアーナの斬新なバッグの評判は、瞬く間にイタリア中に広がります。ブランドを立ち上げてから1年後には、当時イタリアを代表するファッション誌であった「ベレッツァ」にカラーで紹介されるまでになりました。一年間無我夢中で走り続けたジュリアーナは、休みを取り、パリで友人のココ・シャネルに会います。ココ・シャネルはジュリアーナが贈った2つのバッグを大喜びで受け取り、さっそくその夜身につけました。そして「偽物が出回りはじめた」とショックを受けるジュリアーナを「コピーされたのなら、あなたの価値が認められたってことよ!」「泣くのなら、コピーされなくなったときにこそ泣くことね」と励ましました。
アメリカからの手紙
ココ・シャネルからエネルギーをもらい、ヴェネツィアに戻ったジュリアーナは、ある日、アメリカからの郵便を2通、受け取ります。封筒の社名を見て、ジュリアーナは声を上げます。1通は、ニューヨークのサックス・フィフス・アベニューから。もう1通はダラスはニーマン・マーカスからのものだったのです。いずれもアメリカのファッションをけん引する高級百貨店。雑誌「ベレッツァ」を見て、「コレクションを見たい」と連絡してきたのです。ジュリアーナが絵を描き、工房の職人が手づくりしていたロベルタ・ディ・カメリーノのバッグ。コレクションなど、あるはずもありません。困ったジュリアーナは夫のグイド、そして友人の実業家イダに相談します。業界に精通するイダは、自宅の一室をショールームとして使うことを提案します。ジュリアーナは大急ぎでサンプルを10点ほど用意し、「ぜひお目にかかりたい」と返事を出しました。
信じられないようなオファー最初に返事をくれたのは、サックス・フィフス・アベニューの名物バイヤー、テッド・ボール。後にジュリアーナの良き友人となるテッドは、世界中を巡って奇抜なアクセサリー、斬新な小物を発掘する伝説のバイヤーでした。そのテッドが優雅な妻フリッツィーを伴い、ジュリアーナの即席ショールームを訪れたのです。テッドはジュリアーナのバッグを眺め、縫い目を検分し、革を確かめ、フリッツィーに渡します。彼女も同じ動作を繰り返した後、優雅にバッグを下げました。そしてテッドが発した言葉は「すぐに1000個ほしい。それから5年間の独占代理権を。いくらになる?」でした。頭が真っ白になるジュリアーナ。テッドはさらに、毎シーズン一番いいショーウインドーを提供してレセプションを行うこと、ジュリアーナもその場に参加することなどを提案しました。最後に、フリッツィーがひとつのカバンを手に取り「これ、いただけるかしら?」とに問いかけたとき、ジュリアーナは歓喜のあまり呆然としていました。そんな彼女にイダが声をかけます。「さあ、次のお客様がお出ましよ。」
スタンレー・マーカスの提案
スタンレー・マーカスは、アメリカで最も刺激的な百貨店ニーマン・マーカスのオーナーであり、創業者でした。独特のセンスを持ち、趣味のよい商品を一瞬で見抜く。その確かな審美眼は、ダラスの街全体のセンスを引き上げているかのようでした。そしてスタンレーもテッド同様、大量の注文と独占代理権、そしてシーズン毎のレセプションを提案しました。スタンレー・マーカスはまた、ベルベットで有名なヴェネツィアの布工房、ベヴィラクアを訪問したいと伝えました。彼はイブニングドレスのための新しい生地を探していたのです。このちょっとした提案が、後にロベルタ ディ カメリーノに大きな影響を与えることになるのです。