「ロベルタ・ディ・カメリーノ」の創業者であるジュリアーナ・カメリーノ。彼女の生み出す芸術的なバッグは、ファッションの世界に衝撃をもたらし、やがて王妃や大統領夫人までも虜にします。そんなジュリアーナの波瀾万丈なストーリーを連載でご紹介します。
華やかな青春
ジュリアーナは、イタリア・ヴェネツィアの上流階級に属する、裕福なユダヤ人の家庭で生まれました。背が高く、人目を引く美貌に恵まれた彼女は、10代半ばになると社交界にもデビューします。16歳になるころにはパリのクリスチャン・ディオールやココ・シャネルのもとで服を着ていた、というほどの華やかな生活でした。
忍び寄る迫害の影
しかし、彼女が18歳になる頃、そんな華麗な生活もに影が差し始めます。ナチス・ドイツに端を発するユダヤ人の迫害がヴェネツィアにも広がってきたのです。
不安な日々を過ごしながらも、ジュリアーナは伴侶となるグイド・カメリーノに出会い、長男ウーゴを授かります。しかしヴェネツィアでのユダヤ人迫害は日増しにひどくなり、ついにカメリーノ一家はスイスに逃れる決断をします。
スイスへの逃避行は危険なものでした。身分を隠して列車を乗り継ぎ国境へ。そして夜中に幼いウーゴを抱えながら、銃の斉射音が鳴り響く国境のフェンスをくぐり抜け、命からがらスイスにたどり着きました。
運命のバッグ
スイスでは、レストランやバーに入ることも禁じられる不自由な生活を強いられました。しかしジュリアーナは、そんなスイスで、思いがけない運命と出会います。ある日散歩をしていたジュリアーナは、ひとりの婦人に声をかけられました。「そのバッグを売ってほしい」というのです。ジュリアーナが持っていたのはヴェネツィアで買った、手桶の形をした美しい革製のバッグでした。少しでもお金になるのであれば、と自分のバッグを売ったジュリアーナは代わりのバッグを探しますが、なかなか美しいと思えるバッグに出会えません。そんなとき、不意に浮かんだのが「自分でバッグを作ってみよう」というアイデアでした。
すぐにジュリアーナは革、蝋引きの糸、かぎ針、さらに真鍮の金具や肩ひもなど材料を買いそろえ、バッグ作りに没頭します。3日後、彼女の前には自分で縫い上げた美しいバッグがありました。彼女が自分の才能に気付いた瞬間でした。
やがて彼女の美しいバッグは話題となり、革製品会社をはじめとして、さまざまな会社からデザインのオーダーが舞い込むようになります。ジュリアーナは革製品会社の工房に入り浸り、基本的な革の知識から縫製技術まで、バッグ作りの技術を身につけていきました。
ベネツィアへの帰還
身の安全が確保されているとはいえ、スイスでの亡命生活は窮屈なもので、レストランに入ることも禁じられているほどでした。幼いウーゴにパフェを食べさせようとカフェに入ったときのこと。注文したパフェが出てきた瞬間に警察に見つかり、息子に一口も食べさせられないまま席を立たされる、そんな出来事もありました。
そしてイタリアで戦争が終わりかけていた1945年4月。カメリーノ一家は、ヴェネツィアに戻るという決断をします。まだ政情が不安定なイタリアへの帰還。危険な目に遭いながらも、一家はなんとかヴェネツィアの自宅にたどり着きます。たくさんの友人、知り合い。人情味あふれるヴェネツィアの人々の祝福に迎えられ、ジュリアーナと家族は再びヴェネツィアでの生活をスタートします。ジュリアーナが20歳を過ぎたばかりのことでした。
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